フィリピンで仕事を始めた理由とは?困窮邦人からの脱出

フィリピン人

かつてフィリピンという国は、日本人にとって貧困をイメージさせる国ではなかったでしょうか。一方、日本は世界の中でもお金持ちの国です。

お金持ちの国の日本人が、”貧しい国”のフィリピンで仕事をするまでの私の体験をご紹介し、ご自身が海外で生きる上での参考にしていただけるとうれしいです。

「中年ど真ん中の年齢に差しかかって、本当はどこにも勤めたくなんかない!」それでも、異国で就職しなければならなかった理由をご説明します。

※1フィリピンペソ=約2.2円(2019年11月)

フィリピンで困窮邦人へ転落

学校

日本人のイメージだと、フィリピンは遊びに行く国だと思います。私は日本人が遊びに来る国フィリピンで、中年からシルバーへの階段を駆け上がる中、「仕事をして生活する」という選択をしました。

異国では、英語かその国の言葉を話せなければ生きることは難しいのだと、現地で理解しました。普通の日本人なら、これは日本にいる時点で容易に想像がつくことだと思いますが、私は違いました。

「そうは言われているけれど、何とかなるのではないか……」

そんな甘い考えで日本を飛び立ち、まんまと貧乏生活へ突入して”困窮邦人”などと人様から後ろ指を指される存在に落ちぶれていった訳です。

そもそもなぜフィリピンへやって来たのか

教会

日本でリラクゼーションサロンを複数店舗経営していたものの、いくつかのトラブルが同時に発生して仕事に嫌気が差し、自暴自棄になっていました。精神的には鬱状態だったのかもしれません。

そんなとき、ふとテレビを見ると「そうだ。京都へ行こう」とJRのコマーシャルが流れていたのです。頭の中を衝動的な思いが支配しました。「そうだ、海外へ行こう」と。

どこの国に移住しても良かったのですが、「アルファベットを使っているフィリピンなら何とかなるだろう」という安易な考えで、フィリピンという国を選んだのです。

フィリピンへ飛び立つ段取り

フィリピンについて特別な知識があった訳ではありません。また、フィリピン人の知り合いが多くいた訳でもありません。

しかし、フィリピンに行くと決めてからの行動は迅速でした。飼い犬の渡航手続きなどひとつひとつ問題をクリアしていきました。

ペットと同居できる住居を探すのは難しかったので、日本のフィリピンパブに勤める女性と仲良くなり、フィリピンの彼女の実家に犬とホームステイさせてもらう約束を取り付けました。

100ペソショップをオープンしてみる

フィリピンで最も有名なSMデパートに行った際、日本の100円ショップの品物を99ペソで売っているのを見かけました。それを見て「これなら経費をかけず、すぐにでも店をオープンできる」と思いました。

言葉も文化も何も知りませんでしたが、「店をオープンさせれば全てが解決できる」と思い込んでいました。成功するとか失敗するとかは考えず、フィリピンに降り立ってから1カ月半で店をオープンしました。

しかしこの店は、オープン3日で「続けていても成功しない」と見切りをつけることになります。

それは、店を出した場所に集まる人にとっては100ペソが高額で、逆にデパートで買い物する人にとって100ペソは安価という、フィリピン人の経済格差が激しいことを知らなかったからです。

レストランをオープンさせる

100円ショップで失敗した後、2カ月後には性懲りもなくレストランをオープンさせました。レストランと言っても、気取った店ではなく、フィリピンで「トロトロ」と呼ばれる大衆食堂です。

私もシェフとして腕を振るってみたのですが、田舎で開店したこともあり、見たことがない日本の料理にはオーダーが入らず、早々に現地人シェフに座を明け渡しました。

このレストランはつい最近まで営業を続けていましたが、毎月の家賃を捻出するには至らず、赤字経営を1年半ほど継続した後にクローズしました。

日本へ逃げ帰る

お知らせ

レストランを営業していたときは、赤字が続くものの、お客さんはそれなりに入っていたので、やり方次第でプラスにできると信じていました。

赤字補填のため日本で資金を作ろうと考え、私はいったん日本に逃げ帰る選択をします。「フィリピン在住のまま日本でリラクゼーションサロンをオープンさせてみてはどうか?」 と声をかけてくれるスポンサーを見つけたからです。

無一文の私は日本で出資者を見つけ、リラクゼーションサロンをオープンさせることになるのです。

日本でリラクゼーションサロンをオープンさせる

日本で10年程様々な形態のリラクゼーションサロンを運営した経験があったので、わずかな初期費用と短期間でかなりの売り上げを達成できる方法を熟知していました。

店舗として使用するマンションの契約を済ませると、5日後にはサロンをオープンさせ、利益を上げることができました

オープン当日から、セラピストとして働いてくれる人の給料を差し引いて、粗利益で1日2〜3万円は作れました。1〜2カ月後には粗利で月100万円ほどあり、経営は順調でした。

成功したかに思えるリラクゼーションサロンの歯車が狂いだす

イレギュラーを想定して事業を進めるのが当然でしょうが、読みの甘さからまさかの事態が起こります。

リラクゼーション業においても、人手不足が年々深刻化しており、良い人材を集めるのに苦労します。なので、採用基準に達していないスタッフでも採用しますが、お客さまをリピートさせる程の実力はありません。

通常は、スタッフの入れ替えで良い人材を集めながら店を育てていくのですが、その出資者はいきなり資金の回収を始め、求人に経費を使ってくれなくなったのです。

日本が合わず退散する

新しいスタッフが入らず売り上げが落ち込み、ようやく出資者が求人を行いましたが、既に時期を逸していました。

日本では求人が集まる時期とそうでない時期があります。経営のノウハウを知らない出資者は、オープン当初と同等以上の売り上げを求め、私にプレッシャーをかけました。

もともと私は、日本でストレスに耐えられず逃げ出した身です。売り上げが伸びない理由があるにも関わらず、私にプレッシャーをかける出資者に不信感を抱き、2度目の海外逃亡を図ることになったのです。

再びフィリピンで再起を図る

女性

再びフィリピンの地に戻った時には、現金を20万円ほど持っているだけでした。ただ、生活の基盤となる住む場所やレストランはあったので、悲壮感は一切ありませんでした。むしろ、やっと日本から解放されてホッとした気持ちが強かったです。

フィリピンという”ぬるま湯体質”の国を知ってしまった後に、日本という厳格な国はストレスが多すぎて息苦しかったのだと思います。

再び、ノープラン、ノーアイデアのままフィリピンで勝負する日が始まりました。

リラクゼーション店の話が立ち消えとなる

ノープラン、ノーアイデアでフィリピンに戻って来たとはいえ、日本でひそかにフィリピンで始めるビジネスの話を進めていました。

私が簡単にリラクゼーション店を立ち上げ、売り上げを作るのを見ていた別の出資者との間で、トントン拍子にフィリピンでのリラクゼーション店開業の話が進んでいたのです。

新たな出資者となる日本人は、彼の奥さんの家族に仕事を与え、給料を得て欲しいという理由から私への出資を希望していました。ですが、日本からその家族に送られたはずの開店資金はうやむやのまま消えてしまったのです。

フィリピンでのリラクゼーション店の話は煙のように消えていきました。

隠し持つもう一枚のカード

「他人のお金で商売をする」という都合の良い話が簡単に上手く行くと思うほど私はオメデタイ性格ではありません。一つがコケても大丈夫なように、もう一つ保険をかけておきました。リラクゼーションサロンをフィリピンでオープンさせる話をもう一つ進めていたのです。

ただ、なぜか、マニラで進めていたリラクゼーションサロンの話が頓挫して間もなく、もう一つの店の出資者とも連絡がつかなくなりました。メッセージを送っても、既読にすらならなくなったのです。

再起をかけていた話が、またもう一つ、良く分からないまま煙の様に消えて行きました。

2度あることは3度ある

しかし私は、最後にジョーカーを1枚残していました。自分のやりたい仕事ではなかったけれど、フィリピンで屋台のラーメンショップを開きたいという方から「一緒に仕事をして欲しい」とリクエストをいただいていたのです。

正直乗り気ではありませんでしたが、2件もサロン開店の話が流れていたので「これはラーメン屋さんをやりなさい! という神のお告げなのだろう」「潔く運命に従おう」とラーメン屋を一緒にすることにしました。

ただ、”歴史は繰り返す”というか、ラーメン屋さんをやろうと誘ってくれていた方もフィリピン女性に身ぐるみ剥がされてしまうのです。

どうやって働き口を見つけるか

ビジネスを始めるにあたって、ノーマネー、ノーアイデア、ノープランだったものの、だからこそ準備していたビジネスパートナーの話が全部が全部ハシゴを外されるとは夢にも思わず、一体どうするべきか途方に暮れました。

私は神様の存在などこれっぽっちも信じていないのですが、運命という名の敷かれたレールがあり、そこから脱線をしたくても何らかのチカラが働いて、定められたルートを通るように仕組まれているのだと考えました。

そのルートが一体何なのかは分かりませんが、自分でビジネスをやるのがダメならば、どこかに勤めなければならない運命だと考え、フィリピンで職探しをスタートさせたのです。

何の仕事をやりたいのか考える

私はどこかに勤めることに関して非常に消極的でした。25歳で起業してから20年近く自分で仕事をしてきたので、誰かの下で仕事が務まるとは思えなかったのです。

そんな私の就職活動は極めてシンプルでした。自分が興味がある仕事をやってみようと思ったのです。

私は死ぬまでに一度”先生”なんて呼ばれたく、「自分が先生という立場になったらコントみたいで楽しい」と思っていたので、日本語教師に職種を絞りました。

仕事が見つかるまでの期間

インターネットでフィリピン中の日本語学校のホームページを調べ、メールアドレスを見つけては履歴書を送りました。

”お気楽な国”の代名詞とも言うべきフィリピンですから、「日本人ならば誰でも良く、ちょうど先生が足りていなくて困っている学校」があるのではないかと考えたのです。

私は日本語教師の経験も無ければ、資格もありませんでしたが、それでも2校ほど返事が来ました。その内の1つが、現在働いている日本語学校です。

どこかに勤めようとの決断に至ってから、実際に働きだすまで1カ月ほどでした。

フィリピンの日本語学校で現地採用される

私が就職活動をする上でのストロングポイントは「既に現地に住んでいること」「いくつかの業種の店をオープンさせた経験」「ビジネスで培われた現地語での会話能力」でした。

それが評価されて採用に繋がったのかは分かりませんが、現に私は今マニラで日本語学校の先生として仕事をしています

予想はしていましたが、資格や経験の無い私を採用する学校なので、職場環境はあまり良くないです。

これまで日本語を教えたことなど無かった私ですが、教え方を工夫して何人もの生徒に「N4」という日本語資格を取得させました。

”ニセモノ”がいつからか、”本物”になったのです。

気になるお給料や待遇

私の給料は最初の試用期間は4万ペソ(88,000円)でした。学校の中にある寮を使用させてもらい食事も付いているのですが、食事代を引くと手取りは3万5,000ペソ(約7万7千円)ほどです。半年が経過しますが、給料は変わらないままです。

「生徒が日本に行って働くので、フィリピンの祭日は関係ない」という方針か、フィリピンの祭日は関係ありません。

かと言って、日本の祭日が適用される訳では無いので、休みは完全に日曜日だけです。日曜日に休日出勤で授業をしたり、残業で何時間教えても、オーバータイムの報酬はありません。

学校で働いて良かったこと

”先生”と呼んでもらえる経験は貴重でした。また、フィリピンの様々な地域の人たちと良い関係を築くことができたのも収穫でした。教職を通じて、以前の交友関係だけでは知り得なかった”フィリピンのスタンダード”についても学べました。

多くの経験をさせてもらったフィリピン、そして採用してもらった学校には本当に感謝しています。

まとめ

学校

フィリピンで中年女性が採用される職場に、素敵な環境はそう多くないと思います。現在私は、働いている学校を退職するつもりで、既にその旨を学校に伝えています。

学校での経験は、給料の低さや待遇の悪さを差し引いても、お釣りが出るほど貴重なものでした。

私のサバイバルな海外生活に興味を持たれた方は、是非ご自身でも体験してみてください。